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その道30年。片手袋研究家、石井公二さんによる連載「この世界の片手袋に」。
第7回目は番外編で、ハンコ屋さんにある「王・長嶋の表札」を探しに旅に出ます。


(著者:片手袋研究家・石井公二





【筆者】

片手袋研究家 石井公二 片手袋大全twitter

 著者近影小学校1年生から路上に落ちてる手袋に注目して30年。



その瞬間にしか記録できないもの


私は出会った片手袋を“必ず”撮影しなければ気が済まない。

そういう体質になってしまった原因は色々あると思うが、「片手袋はすぐになくなってしまう一過性の現象だから」というのは大きい。

放置型にしても介入型にしても、基本的には片手袋が発生した場所に存在し続ける時間はそれほど長くない。
出先での片手袋との偶然の出会いは、まさに一期一会なのだ。


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▲家の近所の片手袋であっても通り過ぎるたびに状態が変化しているので、やはり一期一会である事に変わりはない

片手袋と出会った「その場所、その状況、その形」を記録出来るのは、出会った「その瞬間」だけ。その事実がある種の強迫観念となり私を狂わせているのだろう。

それは何も片手袋に限った話ではない。
困った事に町は「その瞬間にしか記録出来ないもの」で溢れているから、私の写真フォルダは片手袋以上に訳の分からないもので埋め尽くされていく。



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▲ #ガードレールとシュシュ


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#掲示板の画鋲のコンポジション

「自分が何故その対象に魅かれるのか?」が分からなくても、少しでも気になったらとりあえず撮る。
意味なんて後から考えれば良い。答えが出てから撮りに戻っても、対象物は大抵跡形もなく消え去っているのだから。

だが、やはり「出会ったその場で撮らなかったせいで、後悔し続ける」悔しさも当然何度も経験してきた。例えばこんな事があった。


ある日、近所のはんこ屋さんの前を通り過ぎた時、「お?」と何か引っかかるものを感じた。
通りに面した店のショーウィンドウを覗き込むと、“それ”があった。



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分厚くて立派な木材に、黒々と深く刻み込まれた「王貞治」の文字。

そう、表札の見本である。

何たる存在感。何たる説得力。たった漢字三文字で素通りできない圧倒的なオーラを放っていた。
私は表札というものの役割も忘れ、「いつの日か、私もあの王さんの表札を堂々と玄関に掲げられるだけの男になりたい」と思った。


以降、私はそこを通るたび、ショーウィンドウのトランペットを見つめる黒人少年のようにジッと王さんの表札を見つめていたのだ。

しかし、そのはんこ屋さん。
取り壊しなのか改修なのか分からないが、ある日いきなり建物の工事が始まってしまい、王さんの表札も見られなくなってしまったのだ。
「ああ、せめて写真を撮っておくべきだった…」。後悔しても、もう遅い。



インポのON


だが、ちょっと待てよ。

考えてみると「○○印舗」と掲げられているような老舗のはんこ屋さんは、よく「王貞治」や「長嶋茂雄」と書かれた表札を店頭に飾っているような気がする。
今までにそういう光景を何度も見たぞ。

僕は1980年生まれで王・長嶋の現役時代には間に合っていない。
だが野球少年だった小学生の頃から、日米野球で来日したメジャーリーガー達の王選手へのリスペクト、あるいは松井秀喜と長嶋監督の師弟関係などを通じて、二人の偉大さはビンビンに感じていた。
だから表札の見本として王・長嶋の名前が使われる事も理解出来る。

しかし、例えば平成生まれの人達にその感覚が伝わるだろうか?


来年、その平成という時代も終わる。
定期的に昭和ブームはやってくるけれど、間に平成という時代を一つ挟むようになったら、それもなくなるかもしれない。
また“はんこ屋さん”という業態だってテクノロジーが進化していけば今の形から変化していくだろう。


そうか。

はんこ屋さんの店頭に鎮座する王・長嶋の表札は、今しか見られない光景なんだ!
もう後悔はしたくないし、残された時間も少ない。
私はそれを「印舗の王・長嶋」、いや『インポのON』と名付け、調査・撮影・記録する事を決意した。

ちなみに「印舗」の読みが「インポ」であっているのかどうかは知らないし、調べない。
時にはググらない方が良い事もある。『インポのON』の読みも“インポノオーエヌ”でも、“インポノオン”でも、リエゾンして“インポノン”でも良い。
そこは皆さんにお任せする。

『インポのON』を記録するという事は、消えゆく昭和の断片をも記録するという事である。
その為、調査するのは最近よく見る「はんこ屋さん○○」のようなチェーン店ではなく、ある程度歴史のある老舗店に限定したい。
しかし、「○○印舗」と名が付くような老舗をどう探せばよいのか?


私はTwitterで以下の質問を投げかけてみた。


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すると親切にも数人の方がリプをくれた。皆さん、インポに興味津々である。

はんこ組合のHPを教えて下さった方もいて、そこには都内の組合加盟店を区毎に検索できるページもあった。
どうやら印舗は神田神保町周辺に多いらしく、その辺りをピックアップしてみた結果9店舗が浮上してきた。

ベストナイン。『インポのON』調査になんと縁起の良い数字!
それに神保町なら我が家からも近い。
よし、すぐに実行だ!




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【インポのON 調査概要】

目的:『インポのON』調査を通じて、消えゆく昭和の断片を記録する
決行日:2018年3月12日(月曜日)
場所:神田神保町周辺の印舗(9店舗)
条件:店内でなく、通りに面したショーウィンドウに堂々と鎮座しているものだけが対象
その他:当たり前だけど片手袋探索もやる


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プレイボール


チョーサン、いや、調査当日。
見事な快晴。魚偏にブルーと書きたくなるような青空。私はいわゆる一つの雨男なのだが、さすが王・長嶋。私ごときの負のスパイラルなんか軽くはじき飛ばしてくれた。

自分が担っている重要な役割に対する怯えと誇らしさの両方を抱え、私は午前10時に家を出発した。




●一番 セカンド お茶の水某店舗

まずは神保町から少し外れた店舗から調査開始。
店頭には「印章・ゴム印」の文字が店名より大きく掲げられている。

フムフム。「表札」というのは大々的には打ち出してないんだな。

しかし、ちゃんとショーウィンドウに表札発見!


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残念ながら『インポのON』は無し。

こういった見本の表札に書かれている名前は、どのように決めているのだろう?
『インポのON』はなかったものの、まずは一番打者として相手の出方をしっかり探ってくれた。

※球数を稼いだうえでの三振。ワンアウト。




・二番 ショート 須田町某店舗

いよいよ神田神保町周辺エリアへ。
こちらの店舗もやはり店名より大きく「印章・ゴム印・印刷」の文字。

印刷は名刺の事だろうか?
それよりやや小さく「蔵書印・落款印・役職印・角印」と書かれている。
やはり表札は入っていない。

ここもショーウィンドウはあるものの、残念ながらはんこだけで表札はなかった。
しかし、二店舗目にして早くも印舗のスタイルというのが分かってきた。

まず店名よりも「何を扱っているか?」を大々的に売り出している。
店頭には商品見本を飾る為のショーウィンドウ。そして、あの印鑑クルクル。



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▲印鑑クルクル。正式名称不明

ボンカレー、いや、凡フライを打ち上げたものの、二番打者として早くも相手の投球時の癖などを見抜いてくれた。


そしてここで早くも片手袋発見。




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一見両手袋かと思ったが、介入型の片手袋が二つ重なって置かれていたのだ。よっしゃ!

※凡フライ。が、相手のラッキーなエラーで出塁。ワンアウト、ランナー一塁。




・三番 小川町某店舗(守備位置を書く意味はない事に気付いたので、ここからは割愛)

事前にGoogleストリートビューで見て期待していた店舗。大きな交差点の角に位置し、雰囲気がある。

実際に行ってみるとその期待は裏切られず、深々と店名が彫られた大きな木の看板が老舗のオーラを漂わせている。
ここは店名よりもやや小さな文字で「手彫りはんこ」と書かれた暖簾が下がっていた。

ショーウィンドウには、はんこや名刺、そして表札の他に高そうな天然石も飾られており、高級感がある。「印舗は紳士たれ」という言葉通りの店構えだ。
気配はビンビンに漂っていたのだが…。

残念ながらこちらにも『インポのON』は無し。



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だが見本として使われている名前が「鈴木・佐々木・津田」だったので、プロ野球の残り香のようなものは感じられた。

何となく名刺の見本も見てみたのだが、



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織田信長に徳川家康!

昭和どころか時代遡り過ぎ!
「そんなに戻らなくて良いんだけどなぁ」と視線を落とした瞬間、私の体内に電気が走った。



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はんこの見本に使われていた名前が「原節子」!

王・長嶋とその名前を並べても全く遜色のない昭和の大女優である。
いきなり織田や徳川が出てきて困惑したが、だいぶ『インポのON』に近づいてきた手応えがある。
三番打者として申し分ない活躍であった。

※ヒット。ワンアウト、ランナー一・二塁。




・四番 錦町某店

いよいよ打線が繋がりだしてきた。
ナボナ、いや、なんぼなんでもそろそろ『インポのON』登場の頃だ。


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それにしても、なんでこんなスポーツ用品街にはんこ屋が沢山あるのだろう?
私は「Hey!カール!何でここには沢山のはんこ屋があるんだい?」とiPhoneに話し掛けてみたが、何故か全く反応がなかった。

はんこ屋が多い理由は不明だが、少なくとも『インポのON』にとっては好都合である。
だって神保町と言えばビクトリア、ビクトリアと言えば王さんがCMに出演していた店じゃないか!





胸の高鳴りを必死に抑えながら次の店舗へ向かうと…。
どういう訳か印刷屋さんで、そもそもはんこ屋さんではなかった。これはボン(凡)ミス。

ドンマイ、ドンマイ。三振かホームラン。ある意味四番打者らしい仕事じゃないか。

※三振。ツーアウト、ランナー一・二塁。




・五番 小川町某店舗

ここも事前に期待していた店。
家でGoogleストリートビューを見た時、とても大きなショーウィンドウがあったのだ。

しかし実際に行ってみると、確かにショーウィンドウは大きいのだが、商品がどちらかというとファンシー寄り。
表札の見本も可愛い猫ちゃんタイプ。


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木彫りの堂々たる『インポのON』が似合う感じのお店ではなかった。
名前のセレクトも「佐藤・山田」と、巨人というよりどこか阪急・オリックス感が漂っていた。
五番打者として大きいのを狙ったが、最初から狙い球が外れていた感じだろう。



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そんでもって、また家康…。

※三振。スリーアウトチェンジ。



敗戦濃厚


・六番 神保町某店。

ここからはスポーツ用品街から古本街に突入だ。
実際のプレーを見た事のない私にとって王・長嶋は、『巨人の星』などに登場する漫画のキャラクターでもあった。
『いきなり長嶋茂雄』という長嶋が登場する漫画ばかり集めた本が好きで、小学生の頃に何度も何度も読み返したものである。

もうお分かりだろう。
王・長嶋と本は切っても切れない関係にあるのだ。
絶対に、そうだ。来るぞ、『インポのON』が来るぞ。闘魂込めて歩くぞ。


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今日ばかりは目に入ってくる中華料理屋が全て、王選手の生家である「五十番」に見えてきて街を歩く足取りも軽くなるから不思議さ。

そうして訪ねた六店舗目。



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そっちの三冠王かい!

※さっきスリーアウトチェンジになった時点で気付いた。別に九回まである訳じゃないんだから、「ランナー一、二塁」とかの例えは意味ないわ。




・七番 神保町某店

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ふと気付いたら、無意識のうちに花とか撮り出してた。心が折れかかってる悪い兆候だ。
っていうか、花粉症が滅茶苦茶辛い。鼻の中にティッシュの栓を詰めた上でマスクをしてたけど、さっきクシャミをした瞬間に豆鉄砲のようにその栓が飛び出してしまった。マスクの中が大惨事。

そんな中辿り着いた七店舗目。そもそも表札扱ってなかった。




・八番 神保町某店

八店舗目に向かう途中、片手袋発見。


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ファッション類介入型街路樹・植込み系。
こういうビルやマンションの入り口の片手袋を撮る時はいつも、不審者と間違われないかセコムのステッカーを気にしてしまう。

その後辿り着いた八店舗目。
ショーウィンドウありませんでした…。でも流石に諦めきれず、最初に設定したルールも忘れ店内に足を踏み入れてみた。


「いらっしゃい」

気の良さそうな店主の男性が奥から出てきてくれたので、私は質問してみる事にした。

「あの、木彫りの重厚な表札を探してるんですけど、さっきからどこのはんこ屋さんもプラスチックの薄いプレートが多いんです。最近はそっちの方が流行りなんですか?」

「ああ、木とか石とかは重いから取り付けが大変でしょ?でもプレートは扱いが簡単だからね。最近は木彫りで作る人は中々いないよね」

ああ、そうだったのか…。
勿論全て消えてなくなったわけではないが、『インポのON』どころか木彫りの表札自体時代の流れで少なくなってるんだ。

こちらの店舗もメインで展示されているのは薄いプレート状のものだった。
許可を得て撮影させて貰ったのだが、



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出ました!オール家康!

私はもう、訳が分からなくなってしまった。
何でついこの間まで使われていた木の表札は少なくなっているのに、四百年以上前の人物がこんなに隆盛を誇っているんだ?

みんな、会った事もないのに本当に家康好きだな!

(しかし後でよくよく考えてみたら私自身、昨年の夏休みは家族で日光東照宮に行き、滅茶苦茶はしゃいで写真撮りまくったんだった…)



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・九番 神保町某店

冒頭、私はこう書いた。

考えてみると「○○印舗」と掲げられているような老舗のはんこ屋さんは、よく「王貞治」や「長嶋茂雄」と書かれた表札を店頭に飾っているような気がする。
今までにそういう光景を何度も見たぞ。

しかし、数時間歩いても『インポのON』は見つからない。
ショックと花粉症でフラフラになった頭でよく考えてみた。


「俺、あの近所のはんこ屋以外で、そんな光景見た事あったっけ?」

そもそもの大前提自体、物凄く怪しくなってきた。
どうも私は、疑似記憶を根拠に行動してしまったのではないか?
いや、でもそんなの信じたくない。次が九番目。最後の最後。まだワンちゃん、いや、ワンチャンスある!

…最後の店、一般客向けの小売店じゃありませんでした。



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▲過去には販売もしていたのか、ガレージの奥にあの印鑑クルクルが見えた



ゲームセット!



約束の地へ


今日一日、全てが無駄だった。

私は「今しか記録出来ないもの」ではなく「そもそも存在していないので記録しようがないもの」を求めて歩き回っていたのだ。
何やってんだよ、俺。フラフラと力ない足取りで春日通りに出ると、カレー屋の看板が目に入った。



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“王”の字が涙で霞んで見える。

この涙、花粉症のせいだよね?
もうここは水道橋にほど近い神保町の外れ。
私は何かに吸い寄せられるように、自然とあの場所に向かって歩き始めていた。



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東京ドーム。ある意味、野球界の東照宮。
私は王・長嶋の現役には間に合わなかったが、後楽園球場での野球観戦は間に合っている。
かつてこの地で、確かに王・長嶋が観客達を魅了し続けていたんだ。



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奇しくも東京ドーム内にある野球殿堂博物館では、『昭和、平成と長嶋茂雄』というこの日にぴったりの展示をしていた。
「ああ、ちょっと救われたな」と思い入場しようとしたら、まさかの月曜休館。ついてない時は、とことんついてない。

仕方なく22ゲートの両脇に設置されている「王ゲート」と「長嶋ゲート」を拝みに行く。



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向かって右側が王ゲート。
レリーフは運慶快慶による作という説もあるそうだ。なるほど、口を真一文字に結んだ王さんは、吽形像のようだ。配置も東大寺と同じく右側。



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一方、向かって左の「長嶋ゲート」。
こちらは運慶快慶どちらが手掛けたか諸説あるそうだが、豪快に空振りして口を開けた様は「阿形像」そのもの。当然配置は東大寺と同じ左側である。



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この長嶋さんのレリーフをしばらく眺めていると、落ち込んだ私の心がみるみる回復していくのが分かった。

「三振でも良い。全力を出す事を忘れなければ、見ている人は満足してくれるんだ!」
そう私に語り掛けてくれているようだ。

この後ジャイアンツショップに立ち寄った時に気付いたのだが、



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そういえば三月なのだった。
3といえば勿論、長嶋の背番号。この奇妙な一致もまた、長嶋さんからの優しいメッセージに思えた。帰宅途中、あいつも現れて私を見送ってくれたしね。



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皆さん、今回の調査はちょっとミスター、いや、ミスったけれど、私に出来る事は全部やってみた結果です。
これからも色んなミスがあると思うけれど、一流の片手袋研究家として一本足、いや、一本立ち出来るその日まで全力でバットを振りますんで、引き続き応援よろしくお願い致します!



試合後の奇跡


…と終わってはみたものの、当然東京ドームを後にした段階では「せっかくの休みを無駄にしたけど、これじゃあとても記事には出来ないな」と考えていた。

その後、用事があったので場所を移動して都内某所を歩いていると、一軒の古びた印舗が目に入った。



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さっきまで調査をしていたので、反射的に近寄ってショーウィンドウを覗いてみると…



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『インポのON』‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼


ホーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーームラーーーーーーーーーーーーーーーーーーン‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼



マジでヤラセなし、まさに天覧試合のサヨナラホームランばりに劇的な結末!
やっぱりあったんだ!ラピュタはあったんだ(頭が混乱気味)!

今まで私の出生に関するある重大な秘密を隠してこの原稿を書いていたが、実は私が生まれたのは昭和55年10月14日。
長嶋茂雄が引退したのは昭和49年10月14日。
今回の奇跡はある意味必然。何某かの魂が私に継承されていたとしか思えない!


「我が『インポのON』は永久に不滅です!」


※とはいえ、結局『インポのON』はよくある光景なのかそうでないのか、分からなくなってしまいました。2018年現在ではよく見られる光景であるなら今のうち記録しておきたいので、もし『インポのON』を見つけた方はTwitterなどで「#インポのON」で報告してもらえると有難いです。



【筆者】

片手袋研究家 石井公二 片手袋大全twitter

 著者近影小学校1年生から路上に落ちてる手袋に注目して30年。