その道30年。片手袋研究家、石井公二さんによる連載「この世界の片手袋に」の第8回。
片手袋をとおしてディズニー、ピクサー、ジブリ映画を考察します。
「ありのままで」
「あっ!」
2014年3月16日。新宿の映画館バルト9で、公開されたばかりの『アナと雪の女王』を見ていた私は思わず小さく唸ってしまった。
その後、あらゆるメディアで繰り返し繰り返し流される事になる、エルサが雪山で『Let it go(ありのままで)』を歌い出すシーン。
静かな出だしから劇的なサビ「♪ありの~」に突入するまさにその瞬間、エルサが片手袋を空に放り投げたのである!
空に舞い上がる青い片手袋。
勿論映画には描かれないが、その後、恐らく雪山のどこかにフワリと落ちた筈。
片手袋の上にはすぐに雪が積もり、春の訪れと共に溶けた雪の下からひょっこりと顔を出す。
「ファッション・防寒類放置型雪どけこんにちは系片手袋」の誕生である。
▲写真提供:みかりんさん
ストーリーはどんどん進行していくが、私は「それより片手袋がどうなったか映してくれよ!」と興奮してしまい、全く内容が頭に入ってこなかった。
その為、後日子供を連れてもう一度冷静に見てみたのだが、なんと『アナと雪の女王』。
「寒い場所のシーンでは手袋をしていて、室内では外している」という単純な描写を超えて、もはや“片手袋映画”と断言しても良いほどに片手袋が大きな意味を持つ内容だったのである。
エルサは自分の能力を封印する為に、幼少の頃に経験したある事件以降ずっと手袋をしている。
それはアナを守る為ではあったのだが、同時に姉妹が直接触れ合う機会を奪う事にもなってしまう。
しかし、二人が大人になったあるタイミングで、遂にアナはエルサの手から手袋を片方だけ引き剥がす。
そして片手袋だけ装着した状態で雪山に逃げ込んだエルサは、もう片方も空に放り投げる。
片方は妹が、もう片方は自ら。手袋と共に放り投げられた(解き放たれた)ものは、エルサがずっと背負わされてきた呪縛なのである。
本作は公開時、「社会に抑圧されている女性が解放されるまでの映画」と言われていたが、実はその抑圧を直接表現していたのは片手袋だったのだ。
ガラスの靴が偶然片方脱げてしまった事がきっかけとなり、王子様に救い出してもらった『シンデレラ』から六十数年。
自分の意思で脱ぎ捨てられた片手袋と共に、ディズニー映画におけるプリンセスは新たなフェーズに突入したのだ。
※幼少時のエルサに手袋を嵌めたのは両親であった。それを考えると「子供が成長し、両親の呪縛から解放される映画」と見る事も出来るだろう。
さらに、エルサとハンスに顕著な演出なのだが、手袋は登場人物の心の動きも表している。
幼少の頃からエンディングまで、エルサが素手なのか手袋(時には手枷)をしているのかに注目してみて欲しい。
見事にエルサの心の動きと呼応している事が分かるだろう。
エルサだけではない。ハンス王子も登場時からずっと手袋をしている。
しかし後半、彼がアナの前で手袋を外すシーンがある(暖炉のある部屋)。それは彼の隠された本心が露になるタイミングと見事に呼応している。
さらに言うと、この時ハンスが外すのはあくまで片手袋。彼が最後まで外さなかったもう片方の本当の内面、それは案外臆病で自信を喪失している男の姿なのかもしれない。
一方、もう一人の男性キャラ、クリストフは(冒頭の幼少時を除いた)初登場時から、ギターを弾いているシーンでアナに素手を見せている。
クリストフは最初からアナに本当の姿を見せていたのだ。
では肝心のエルサとアナが、幼少の頃のように再び素手で手と手を取り合うのはどのタイミングなのか?
皆さんももし再見する事があれば、是非そこに注目して欲しい
「そんなのお前が片手袋研究家だからそう見えるだけだろ!」と言われてしまうかもしれないが、アニメというのは実写と違い画面に映っている物は全て意図的に描きこまれている。
だから手袋一つとっても、そこには確実に作者達の意図が込められている筈なのだ。
※ピクサーの最新作『リメンバー・ミー』の同時上映短編作品、『アナと雪の女王/家族の思い出』にも再びエルサの青い手袋が登場するので、それがどんな意味を持たされているのかに注目して欲しい。
「空に憧れて」
「あっ!」
2013年7月22日。新宿の映画館バルト9で、公開されたばかりの宮崎駿監督作『風立ちぬ』を見ていた私は思わず小さく唸ってしまった。
映画は主人公である二郎の幼少期から始まる。二郎少年は憧れであるパイロットとして大空を飛び回る夢を見ているが、あえなく墜落。次の瞬間、飛行機から放り出され落下していく二郎少年の手から、片手袋が脱げて飛んでいったのである!
勿論映画には描かれないが、空を舞う片手袋はやがて平地に広がる田園に落ちるだろう。
「軽作業類放置型田んぼ系片手袋」の誕生である。
▲写真提供:うみかめさん
この冒頭部分。執拗なメガネ描写がとても印象的だ。幼少期の二郎が度の強い眼鏡越しに見ている、歪んだ世界。
つまり、パイロットになるという彼の夢や未来は、早くも近視によって閉ざされてしまった事を暗示している。
しかし、実はメガネだけではなくて、彼の手からスルリと脱げていった片手袋にもそれは込められているのだ。
※物語中盤、またもや二郎の手から“真っ白い紙飛行機”が逃げていくが、今度はそれをしっかり受け止める人間が現れる。ヒロインの菜穂子である。
それにしても、同じ年に公開された(『アナと雪の女王』も本国アメリカでの公開は2013年)世界を代表する二つのアニメスタジオの作品に、それぞれ手袋が片方脱げる・脱ぐシーンが存在するとは…。
しかも、構図も全く同じ主人公の真上からのショット。
この奇妙な一致は何だろう?
片や、幾度目かの絶頂期を迎えたアニメスタジオの作品において、自分を縛り付けるものからの解放と共に脱ぎ捨てられた片手袋。
片や、そのキャリアを終えようとする巨匠(ご存知の通り、現在宮崎駿監督は引退を撤回しているが)の作品において、夢破れる主人公の象徴として脱げてしまった片手袋。
クラリスとナウシカ
だが、実は宮崎駿監督は『アナ雪』よりも数十年前、スタジオジブリ設立以前の段階で既に『アナ雪』的な片手袋の演出をしているのだ。
まずは1979年、宮崎駿初長編監督作品『ルパン三世 カリオストロの城』。
序盤に片手袋が重要な小道具として登場するのをご存じだろうか?
自分を救い出してくれたものの気絶してしまったルパンに気付いたクラリスは、手袋を片方外し水で濡らす。それをそっとルパンのオデコに乗せ介抱するが、すぐに追手がやってきてしまった為、クラリスは慌ててその場を離れる。
意識を取り戻したルパンはクラリスが置いていった片手袋を持ち上げ、中から出てきた指輪によって彼女の正体に気付くのだ。
この時、クラリスが置いていった片手袋は、彼女が纏っていたウェディングドレス用の真っ白なシルク製のものである。
ルパンが彼女の事情と素性を察する直接の原因は勿論指輪なのだが、片手袋も彼女の高い身分、特別な出自、それによって無理矢理押し付けられそうになっている抑圧、などの象徴になっている。
これは『アナと雪の女王』におけるエルサの青い手袋が意味するものと非常に似ている。
※その意味では片腕に呪い(であり力でもある)を受け、それ故に村社会から出て行かざるを得なくなった『もののけ姫』のアシタカにも触れたいのだが、今回は割愛する。なおアシタカが途中、手甲を“片方”外し、呪いを水で清めるシーンあり。またエボシが最後に失うものにも注目。
『カリ城』から五年後。
『風の谷のナウシカ』の冒頭にも片手袋が登場する。
王蟲に追われているユパを救出したナウシカ。二人は久しぶりの再会を喜ぶが、その時ユパのポシェットから一匹のキツネリスが顔を出す。獰猛な性格らしく、牙をむき出しにしてナウシカを威嚇するキツネリス。
その時ナウシカは、おもむろに片手袋を外して素手を差し出す。
キツネリスは咄嗟にナウシカの指に噛みつき血が滴り落ちるが、「こわくない」というナウシカの優しい言葉に落ち着きを取り戻しあっという間に彼女に懐いてしまう。
手袋は人間の手を覆う一枚の布である。
その布は身に付けた人間を守りもするし、他者との間に設けられた一枚の壁にもなり得る。
「手袋をまず心の壁として比喩的に描き、それを外す事が他者とのコミュニケーション成立に繋がる」という手法も、まさに『アナ雪』と一致する。
※さらに言うと、映画中盤、腐海に墜落しそうになってパニックに陥っている風の谷の爺さん達を落ち着かせる為、ナウシカが瘴気の中でマスクを取ってみせるシーンがある。これも身に付けているものを敢えて外す事で冷静なコミュニケーションを図る描写であるといえる。
2016年の『メッセージ』(米)というSF映画の中で、地球に飛来した宇宙船の中にいる“あるもの”とコミュニケーションを図る為、主人公の女性言語学者は敢えて宇宙服を脱ぐ。
このシーンは『ナウシカ』とのつながりを感じずにはいられなかった。
『借りぐらし』 ~日常とシームレスの異世界~
基本的に我々は、我々が落としたり失くしたりしてしまったものがその後どんな運命を辿るのか知る事は出来ない。
この片手袋を落とした人は、このように誰かが拾いあげた事を知らないだろう。
そして私も、この片手袋がその後どんな運命を辿るのか基本的には知る事が出来ない。
しかし出来ないからこそ、そこには空想や妄想の余地が生まれる。
例えば…
「この世に人間が未だ認知していない不思議な生命体がいて、それが我々の落とし物を利用して暮らしていたら?」
一つの落とし物からそんな空想を広げた経験が皆さんもないだろうか?
「そんな奴いるわけねーだろ」?
いやいや、そんな事はない。むしろ世界中にいる。
ピクサーの『モンスターズ・インク』(2001)を見てみよう。
物語中盤、主人公コンビのサリーとマイクは、とある事情からヒマラヤで生活しているイエティの家を訪ねる。
家と言っても雪で作られたもので、外は猛吹雪。極寒の中、ガタガタ震えながらランタンの熱に当たっているマイクに注目して欲しい。
寒さしのぎに耳や手や足に手袋をはめているのだが、少なくとも両足の手袋は色も形も異なっている。そう、片手袋だ。
これはどういう事だろう?
劇中説明がある訳ではないのだが、注意深く背景を見てみるとその理由が分かる。
イエティの家の中には恐らく人間が使用していたのであろうザイルやピッケルがぶら下がっている。
つまり、イエティはヒマラヤで遭難した登山者の道具を拾い集めて暮らしているようなのだ。その中に手袋もあって、中には片手袋もあったのだろう。マイクはそれを履いていたのだ。
ストーリーには全く影響しないし作品中で言及される訳でもないが、ほんの少しだけ登場するキャラクターの背景にもこんな物語がきちんと用意されている。
本当にピクサーという会社が追及しているクオリティの高さには驚かされる。
ディズニー作品も見てみよう。
2008年にOVAとして制作された『ティンカー・ベル』という作品。
そう、あの『ピーターパン』のスピンオフ作品だ。
本作はネバーランドにあるピクシー・ホロウで暮らす妖精達を描いているのだが、彼女達はメインランド(人間の世界)から漂着してくるものを様々な道具に仕立て上げ生活している。
ティンカー・ベルはそういった道具を作り出す才能に恵まれた妖精として誕生するのだが、彼女が作り出した道具の中に片手袋を使用したものもあるのだ。
片手袋とハーモニカを組み合わせて作った種蒔き機である。手袋をふいごのように利用するとはお見事である。
さて“人間の世界から漂着してくるものを様々な道具に仕立て上げ生活して”と言えば、日本にも忘れてはならないアニメ作品が存在している。
2010年にジブリが制作し米林宏昌氏が監督を務めた『借りぐらしのアリエッティ』だ。
この作品は題名が示す通り、ヒマラヤのイエティやピクシー・ホロウの妖精達と同じく、小人達が人間の道具を借りて生活している。
どんな道具をどんな風に使って生活しているのか?
本作ではそんな細かい描写一つ一つにイマジネーションとアイデアが存分に発揮されていて、そこに注目しているだけでも面白い。
序盤、アリエッティが父親に連れられて初めての「借り(寝静まった人間の住居から様々なものを借りてくる)」に出るシーン。小人達にとっては物凄く高いテーブルの上から、ロープを伝い地面に降り立つアリエッティの手に注目して欲しい。
なんと手袋を片方だけしかはめていないではないか!
ロープの摩擦から手を保護するには、両方手袋をしていた方が安全だろう。
しかし、片手は細かい作業が出来るよう素手にしておきたかったのか?
あるいは手袋を幾つも作れるほど物資に恵まれてはいないのか?
あるいは私が知らないだけで登山などのロープワークでは片手袋が常識なのか?
空想やイマジネーションに基づいた細かい描写が、見ているものの中に新たな空想を生み出す。
これはアニメーションの醍醐味の一つと言っても過言ではないだろう。
『モンスターズ・インク』『ティンカー・ベル』『借りぐらしのアリエッティ』。
いずれも我々が見た事のない不思議な生命体の話でありながら、よく見慣れた人間の道具が重要な意味を担ってもいる。
それによって映画を見る子供達は、人間とは全く接点のない異世界のファンタジーではなく、日常生活のすぐ隣にあるかもしれない“シームレスな異世界”のお話としてのめり込む事が出来るのだ。
この“我々の日常とシームレスな異世界”という設定は上記の三作品だけでなく、ディズニーやピクサー、そしてジブリが描く世界観の一つの特徴であると思う。
近代化された都市を飛び回る魔女、人間が見ていない時だけ活発に動き回るおもちゃ達、豚や狸と人間が共存している世界、扉を開けて子供の寝室に現れるモンスター、トンネルをくぐると現れる神様達が集まる湯屋、死者と生者の境が曖昧になるメキシコの「死者の日」、そして“となりの”トトロ。
「落とす、失くす、忘れ去る」
昨年、私が参加している映画好きが集まって楽しく語らう会で、「『カーズ3』が良かった」という感想を複数聞いた。
気になって帰宅してからネット検索していると、同時上映の短編作品『LOU』のポスターが目に入った。
なんと山に積まれたガラクタの真ん中に、緑色の片手袋がしっかり描き込まれているではないか。
子供用のミトンだ。今までも述べてきた通り、ディズニーやピクサーの作品には度々片手袋が登場する。もう慣れていたつもりだったが、ポスターの段階で既に登場とは穏やかではない。
高鳴る鼓動。翌日、すべての予定をキャンセルして私はすぐに映画館に飛び込んだ。
『LOU』のあらすじをWikipediaから引用すると…
ある幼稚園の運動場の片隅に、忘れられたおもちゃが入った「忘れ物預かりボックス(Lost and Found)」があり、その中にはそれらが合体して成る不思議な生き物ルーが潜んでいた。
休み時間中、運動場では園児達が各々に遊んでいたが、他人のおもちゃを奪い取っては自分のリュックに隠してしまう意地悪な少年JJが出現する
つまり『LOU』というタイトル。
忘れ物預かりボックスに貼り付けられた“Lost and Found”という文字が劣化して剥がれてしまい、その剥がれた三文字を並べて『LOU』なのだ。
実際に作品を見てみると様々な落とし物達が登場するものの、残念ながらポスターに描かれた片手袋の出番は(映画館で一度見た限りでは)なかったように思う。
しかし、落とし物にまつわる物語ではあったので、やはり片手袋が登場した過去のディズニー/ピクサー映画との共通点はあった。
先程『モンスターズ・インク』や『ティンカー・ベル』の片手袋を説明する際、“基本的に我々は我々が落としたり失くしたりしてしまったものが、その後どんな運命を辿るのか知る事は出来ない”と書いた。
『LOU』も恐らく作品の出発点はそこにある筈なのだが、今度は我々が落としたり失くしてしまったりしたもの自体が生命を宿し躍動するのだ。
しかし考えてみれば、近年のピクサー、そしてディズニー作品の多くはテーマそのものが「落とす、失くす、忘れ去る(あるいは落とされる・失くされる・忘れ去られる)」であったように思う。
ピクサー初の長編映画、『トイストーリー』。おもちゃ達の忘れ去られてしまう事への恐怖が、物語の推進力になっていた。
しかし、三作目の最後の最後で、忘れ去られるのはアンディの幼年期そのものであった事が分かり強烈に涙腺を刺激される。
『ウォーリー』冒頭、人間が忘れ去ったものとして登場するのは地球全部である。誰もいなくなった地球でゴミの山をひっそりと整理しているウォーリーの悲しさ。
『カールじいさんの空飛ぶ家』では、カールじいさんはもういなくなってしまったある人の思いに捉われ生きている。
『インサイド・ヘッド』に出てくるビンボン。この映画を見た時、多くの大人はかつて自分にもいた、そして忘れ去ってしまった「空想の友達」の存在を思い出したのではないだろうか?
そして『LOU』。そもそもタイトルが“Lost and Found”の残った文字ではなく、失くなった方の文字である事が興味深いし、物語自体もかつて自分が失くしたものこそが自分を作り上げていた事に気付くお話であった。
さらにその後の本編『カーズ3』も、まさにもう忘れ去られていた人(車)達の物語なのである。
ピクサーだけではない。
『塔の上のラプンツェル』の塔がある場所、『くまのプーさん』におけるクリストファー・ロビンの幼年期、『シュガー・ラッシュ』の古いアーケードゲーム機、『ベイマックス』の優しい兄…。
「落とす、失くす、忘れ去る」のモチーフを挙げていけばキリがない。
そして考えてみて欲しい。
『カリオストロの城』の本当のお宝は何であったか?
『天空の城ラピュタ』でひっそりと空に浮かび続けるラピュタは人々にどんな扱いを受けていたか?
『となりのトトロ』におけるトトロや鎮守の森、『魔女の宅急便』における魔女の力は、皆が何となく知っていても実際に意識する事はないものとして描かれる。
『紅の豚』で空に消えていく飛行機乗り達の魂。『平成狸合戦ぽんぽこ』の狸達、『千と千尋の神隠し』の神様達の生活圏は、人類の発展によりどんどん浸食されていた。
そう。ジブリ作品の歴史もまた、驚くほど「落とす、失くす、忘れ去る」を描いてきた歴史なのだ。
個人的にはジブリ映画をジブリ映画たらしめる最重要ポイントは、「飛翔」でも「おいしそうなご飯」でも「戦闘少女」でも「ファンタジー」でもなくて、ここにあると思っている。
我々は成長の過程で様々なものを失いながら生きているのだから。
良く知られるように2000年代中盤からディズニーとピクサー両方でチーフ・クリエイティブ・オフィサーを務めていたジョン・ラセター(現在、ある問題の責任を取って休業中)は、ジブリ作品からの影響を公言してやまない。
もし本当に近年のディズニーやピクサー作品がジブリの影響下にあるのだとしたら(勿論、影響元が一つだけである筈もないが)、作品内における「落とす、失くす、忘れ去る」への視線を見落としてはならないと思う。
そして、その視線があるからこそ、手描きアニメと正反対であるフルCGアニメでも、ラセターが指揮を執ってきたディズニーやピクサーの作品からはジブリと同じような誠実さを感じるのかもしれない。
しかし、もう一つ大事な事として、ここまで触れてきた作品に登場する「落とす、失くす、忘れ去る」ものは、ただ消えていくだけではなくて必ず形を変えて主人公達に引き継がれていくのだ。
まるで落ちている片手袋を誰かが拾い上げるように。
現在、引退を撤回した宮崎駿は最新作に取り掛かっていると聞く。恐らくその作品こそ彼の最後の作品になるだろう。つい先日、高畑勲監督は亡くなった。
しかし、彼らの魂や視線は、既に世界中のクリエイター達に拾い上げられ、継承されているのだ。私はそれを、作品内に登場する片手袋(あるいは片手袋的精神)を通じて確信する。
最後に。ここまで来たらもう一歩。あとはジブリやディズニーやピクサーが、片手袋そのものを主題とした作品を作るだけだ。死ぬまでにその日が来る事を願う。
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【目次】
●はじめに
●片手袋分類図
●第一段階「目的で分ける」
・軽作業類/重作業類/ゴム手袋類/ディスポーザブル類/ファッション・防寒類/お子様類
●第二段階「過程で分ける」
・放置型片手袋/介入型片手袋/実用型片手袋/
●第三段階「状況・場所で分ける」放置型編
●第三段階「状況・場所で分ける」放置型編
・道路系/横断歩道系/電柱系/バス停系/雪どけこんにちは系/田んぼ系/海辺系/深海デブリ系/籠系/駐車場系
●第三段階「状況・場所で分ける」介入型編
・ガードレール系/三角コーン系/電柱系/バス停系/棒系/掲示板系/フェンス系/植込&花壇系/室外機系/消火器系/ゴミ捨て場系/落とし物スペース系
●片手袋の形状一覧
●おわりに