その道30年。片手袋研究家、石井公二さんによる連載「この世界の片手袋に」の第11回。
片手袋がテーマの作品を作る、スウェーデンのアーティスト「ディーガル晶子」さんにインタビューをしております!
(著者:片手袋研究家・石井公二)
スウェーデンからの衝撃
「石井公二様
初めましてディーガル晶子と申します。
現在スウェーデンに居住しており、アート活動をしております…」
今年の二月。
こんな書き出しで始まるメールを受け取った。
メールには差出人であるディーガル晶子さんの作品画像も添付されていたのだが、それを見た瞬間、私は声をあげてしまった。
「な、なんだこれは!」
フェンスに挿さった無数の片手袋。
片手袋研究における重要な活動の一つに、「片手袋が登場する・題材になっている創作物を収集する」というものがある。
片手袋が登場する映画や漫画、文学作品は沢山あるのだが、実はアートの世界にも無視出来ない数の作品が存在している。
僕自身、過去に片手袋を題材にしたアート作品を幾つか制作している。
それどころか、片手袋が纏っている不思議なオーラや、片手袋研究というなかなか説明する事が難しい活動を最初に受け止めてくれたのはアートの世界であった。
▲2013年、神戸ビエンナーレで『まちに咲く五本指の花』という作品を発表したのが、片手袋研究を公にした最初の一歩
ディーガル晶子さんが写真を送って下さった作品『lost, lost property』は、私が今まで見てきたどの片手袋作品より尋常でない熱量を発していた。
失礼かもしれないが、半分狂気に近いものすら感じたのだ。
「これは確実に片手袋アートにおける最重要作品だ」
すぐにそう直感した私は、『lost, lost property』の事、ディーガル晶子さん自身の事を教えて頂く為、インタビューを申し込んだのである。
日常と収集癖
「はじめまして!
まず、お生まれやこれまでの歩みを教えてください。」
「はい。
私は北関東の県庁所在地に生まれ、教育を受けたのち、就職しました。
日本での社会人生活を数年間経験したあと、中東、イギリス、カナダでの居住をへて、ヨーロッパ出身の夫とニュージーランドに移住。
長年ニュージーランドで暮らしましたが、現在はスウェーデンに居住しています。」
「いつ、どんなきっかけでアーティストを志したのでしょうか?」
「北関東の田舎町で生まれ育った私にとって、美術大学へ進学し、アーティストを目指すなど考えも及ばない選択肢でした。
日本では就職に有利だとか、将来を考慮してとか、保守的に大学の進路を考えていました。
海外生活を始めた当初は、言語も不自由でしたし、生活を支える事を第一に仕事を選択していました。
ニュージーランド生活が落ち着いてきた頃、本当にしたかった事はなんなのか考えるようになりました。
現地の人々は社会人になった後でも、リタイア後でも、自由に大学で勉学を続けていたのです。
夫が仕事をしながら大学院へ戻ったのにも刺激を受けました。
答えを見つけた私は仕事を辞め、美術大学へ入学し、大学院まで進みました。
その後はアーティストの先生の助手などをしながら、独自の制作活動を続けてきました。」
「これまでにどんな作品を制作されたのでしょうか?」
「大学院で選んだテーマの一つが「日常と蒐集癖」です。
人はなぜ蒐集(しゅうしゅう)をするのか?
蒐集が人の心理におけるリアリティにどんな影響を及ぼすのか?
特に日常において見落とされたり、まったく論じるに足らないとおもわれたりする些細な出来事に視点を当て、作品を構築してきました。
蒐集したものの形態や素材を再構築して、蒐集された「もの」の新しい価値やリアリティを再確認する、という手法を取っています。」
例えば、この『7×10』という作品をご覧下さい。
「ニュージーランドは羊の国です。人口の何倍もの羊が飼育されています。
羊はこの国の経済を大きく支えてきましたし、羊毛から作られる毛布は人々の健康や安全を支えてきました。
ニュージーランドに羊を持ちこんだのは統治国イギリスです。
イギリスは小麦やタバコ・毛布などと引き換えに、土地所有の概念のない先住民族から土地を不平等に購入していました。
近年、ニュージーランドで毛布はときに政治的意味を持つ「もの」として存在しています。先住民族の抗議で国会前に敷きつめるのです。
外国の安価な生産コストに対抗できず、ニュージーランドの毛布生産は減少しています。
もう生産されなくなった昔の毛布を蒐集しているのですが、それをプラスチック製のスーパーのバッグに再構築しました。」
「なるほど。
ディーガルさん自身が蒐集しているものを、ある文脈やテーマのもとに違う素材で再制作してみる。
すると、蒐集していたものが本来まとっていたはずの様々な背景が、改めて浮かびあがってくる。」
「次の作品『Cure』も私の収集癖から構想された作品です。」
「当時、ニュージーランドで飼っていた犬が高齢のためか分離不安症になりました。
動物病院で相談したら、なんと人間にも処方される抗鬱剤プロザックを処方されたのです。
この経験から偏頭痛持ちの自分が、なにげなく日服用していたアスピリンについて考えました。
「少しの偏頭痛で服用していたアスピリンは、精神安定剤のような役割なのだろうか?誰もが日常において不安や少しの痛みを抱え、さまざまな方法で精神の安定を図る。それが私にとってアスピリンなのだろうか?」
意味もなく長年蒐集していたアスピリンのパッケージを使って、小さな痛みと心の安定を繋げるクリップを構築したのです。」
ディーガルさんの作品は、どれもかかっている手間を考えると初見時は驚いてしまう。
だが、着想から制作までの思考プロセスが明確なので、コンセプトをうかがうと「なるほど!」となる。
ニュージーランドからスウェーデン、そして片手袋
「ニュージーランドでの生活が長かったようですが、スウェーデンに移住されたきっかけを教えてください。」
「ニュージーランドは素晴らしい国ですが、建国約160年の新しい国です。次第に歴史と文化に渇望を覚えてきました。
どこか豊かな歴史を持つ国へ移住したいと考えるようになり、夫の仕事の条件でスウェーデンに決めました。」
「スウェーデンの生活や特徴についてお聞かせください」
▲ディーガルさんの住む南スウェーデンの最寄りの街、デンマークのコペンハーゲンの街なみを送っていただいた
「北欧は想像を超える長く暗い冬が、半年は続きます。
人々は冬を乗りきるため、屋内生活を豊かに心安らかに過ごす事に力を注ぎます。
素晴らしいデザインやアイディアは厳しい自然から必然的に生まれたのだと理解しました。
スウェーデンの人々は少し日本人と似たところがあり、とてもシャイです。
ニュージーランドでは他人でも挨拶しますが、スウェーデンでは数回顔を合わせてやっと挨拶にたどり着く感じです。」
「片手袋に興味を持つきっかけはなんだったのでしょう?」
「犬の散歩中、たくさん片手袋が落ちてることに気付いたのがきっかけです。
北欧は冬期が長く、生命維持の必須アイテムなので、手袋の遭遇率が高まったのだと考察します。」
「う~ん、今すぐにでもスウェーデンに行きたい……。」
「スウェーデン移住当初、大学都市に住んでいて、冬場の片手袋遭遇率が高かったです。
なぜか学生は手袋をよく落とすようです。自転車通学するからか、携帯電話の使用で手袋を外すからか、その辺は考察の余地がありそうですが……。
あらゆる時間帯、あらゆる場所で、北欧手編み風、安価大量生産風(H&M とIKEAの国です)の片手袋が観察されました。
軍手、ゴム手袋などの業務用、労働用の片手袋はほぼ見かけませんでした。
北欧手編み風は翌日になくなっている事が多く、持ち主に回収されたものと考えられます。ちなみに私は片靴下の蒐集もしています。
現在住んでいる街は、都市部だからか遭遇率が低くなりました。
ですが、公園、幼稚園、小中学校の近くでは比較的よく見かけます。」
「私も片靴下の蒐集しています(きっぱり)。」
ディーガルさんも私と同じく、ただ片手袋を気にするだけでなく、つい発生原因の考察までしてしまう
のが興味深い。
さて、いよいよ写真を送ってくださった片手袋作品『lost, lost property』についてうかがってみた。
何故、蒐集をしてしまうのか?
「『lost, lost property』のコンセプトを教えてください。」
「この作品は実験的な作品です。
精神科医、春日武彦氏『奇妙な情熱にかられて』(集英社新書)の著書にでてくる仮説にしたがって、作成しました。
春日氏の考察によると、収集癖にもっとも親和性が高いのは強迫神経症だそうです。
「馬鹿げたこだわり」「執着」といった症状は本人が無意味と自覚してなお抜け出せない。
常に不完全や不確実感がつきまとい、心が安らがない状態だと言います。」
総じて人間は、精神的に追い詰められると無意識のうちに用いる戦略がある。
現状のじぶんでは、世界を丸ごと相手にしていては勝ち目がない。精神的にも身体的にも、そんな大きすぎて取りとめのない存在なんかには太刀打ちできない。
そこで自分が扱わねばならない世界を小さなものにしようとする。戦略縮小を図るわけである。
(『奇妙な情熱にかられて』集英社新書p.190)
「取り扱う世界を縮小するには、記憶喪失や多重人格になれば責任や罪悪感を免除されるが、それはあまりにも極端過ぎます。
であれば、生命に差し障りのない程度の「病人」になる事が次善の策となります。
病人であれば「膨大な世界と対峙する」曖昧さより、「病気の治療」という具体性のある状況に自分を置けるからです。
コレクターは事さら不完全な人間であり、欠落したものがあるからこそ、象徴的に補う手段としてコレクションが生じているのではないか?と、ご自身もコレクターの春日氏は言います。」
つまり、要約すると、
『人間は不完全な存在でありながら完全を常に追い求める。だが目前の曖昧で壮大な世界を相手にするより、戦略的に世界を縮小する事で、その小さな世界の完全を目指す方がより具体的である。
蒐集とは、その小さな世界の完全を目指す事で心の安定を図る為の行為ではないか?』
という事だろう。
私であれば、何一つ確かな事が言えない曖昧な世界の中でまず片手袋という小さな世界を作り、片手袋研究という具体的な行動によって少しずつ確信を得ていく行為によって、私自身が救われているのかもしれない。
救われている、という側面がある以上、本末転倒ではあるが蒐集から抜け出す事は困難になっていく。
「このプロジェクトで「縮小した世界でさえコンプリートは事実上不可能ではないか?」を考察しました。
蒐集した片手袋の写真は、その「もの」自体が不完全です(※二つで一組の手袋が片方だけになってしまっているため)。
であるなら「その片手袋のもう一方を作成したら、その世界はコンプリートするのだろうか?」と作品を制作しはじめたのです。
しかし、自分の作成した手袋はオリジナルの片手袋と出会う可能性はなく、であるならば、自分が作成して生まれた手袋も永遠に片手袋であり続ける。写真の片手袋と作成した片手袋は永遠にパラレルワールドに存在し続ける、という事です。」
「『lost, lost property』の制作過程、一つの手袋が完成するまでにどれくらいの時間がかかるか?大変な点など教えていただきたいです」
「制作過程は、まず片手袋と片靴下の写真の蒐集。」
「片手袋と片靴下の写真をもとに、もう一方の(落とし主が持っていると思われる)手袋と靴下を作成します。」
「作成期間は手袋や靴下の柄やサイズによって異なりますが、約一週間です。
原則として片手袋に一切触ってはいけないという自分ルールがあるので、映像でだけ記録します。
複雑な模様を映像から読みとって、製図しなければならないのが困難な点です。
製図に最も時間がかかり、制作は比較的楽な作業です。」
「『lost, lost property』へのリアクションを教えてください」
▲スウェーデンIACでの展示の様子
「北欧ではみなさん手袋にまつわる思い出があるようで、「子供の時におばあさんに編んでもらったのと同じだ」とか、特別な柄ならその出身地の方々が誇らしげに自分のルーツを語ったり、思いがけず個人的なお話をうかがう機会がありました。
大多数のリアクションは「なぜ?」でしたが…。
一つ心に残ったコメントは、日本の禅の思想では「解き放つ事」が精神の安定をもたらすはずなのに、あなたの精神の安定はこの作品のどこに存在するのか?と問われた事です。」
蒐集は自分を救済しない
「私の活動を知ったきっかけと、どうおもったかを教えてください」
「この作品を制作するにあたり、同様の活動をされている方をリサーチしました。
その時、たまたま神戸ビエンナーレ2013 作品集で発見しました。
最初に作品を見た時、おそらく自分と同じ「癖」を持ったアーティストを見つけたと、ニヤニヤしてしまったのを憶えています。私は作品制作の過程で、妄想が救済にならないのと同じように蒐集癖が自分を救済する事がない、と実感しました。
私と同じく、蒐集における喜びと苦痛のスパイラルワールドにはまりこんでしまった業を感じました」
「片手袋に注目するようになって以降、世界の見え方に変化がありましたか」
「もともと実験的に始めた作品ですので、この先もこの制作において、答えを見出す事が出来るのかまったく自信がありません。おそらくなんの答えも見出せないと思っています。
どちらかというと精神修行的な制作活動になっていますね。この先も片手袋を見逃す事はないと思われますし、見逃すつもりもないという気持ちです。
世界はもともと不完全で、常にすれ違い、その世界に存在する不完全な自分は不完全ワールドの一員であるとの想いが強く、両手袋を見るとそれ自体が不完全であるかのように感じてしまうこの頃です。」
「今後の展望や予定がありますか」
「実は来年ニュージーランドに再度引っ越す事になりました。北半球で生まれ、南半球で過ごし、また北半球で暮らした経験は再度の南半球での暮らしになんらかの彩りを与えてくれるとおもっています。
片手袋はスウェーデンに滞在する限り制作活動を続けます。この作品を南半球で展示する可能性も現在模索中です。
「世界は不完全なもので構成されている」という私なりの考察を次の作品のテーマに制作活動をしていく予定です。」
まとめ
「蒐集における喜びと苦痛のスパイラルワールドにはまり込んでしまった業」
「この先もこの制作において、答えを見出す事が出来るのか全く自信がありません」
ディーガルさんの言葉は、片手袋研究の楽しさと苦しさにはまり込んでいった自分の心境と、怖ろしいほどにシンクロしていた。
出会った片手袋には触らない、というルールも私とまったく一緒だ。
さらにここ数年、「両手袋も片手袋である」というまったく理解されない主張を繰り返している私にとって、「両手袋を見るとそれ自体が不完全であるかのように感じてしまうこの頃です」というディーガルさんには、「やっぱりそうですよね!」と握手を求めたい気持ちで一杯である。
今回、ディーガルさんが送って下さった片手袋作品に衝撃を受けてインタビューをお願いしたが、「表現活動はいつだって始められる」「北欧の暮らし」「蒐集が人の精神に及ぼす作用」「蒐集を表現にする際の思考回路」といった大きなテーマにまでお考えを聞かせていただき、本当に有意義なものになった。
どうか片手袋に興味がない人にも届いて欲しい。
インタビューを終え、私には一つ大きな願いが生まれてしまった。
いつの日か、ディーガルさんの作品現物を日本で拝見したい!
絶対に叶うだろうと信じている。