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その道30年。片手袋研究家、石井公二さんによる連載「この世界の片手袋に」の第14回。
いよいよ、かつて片手袋と出会った場所を再訪し、“片手袋がない”風景を撮り始めた石井さん。
「ある」と「ない」の境界線を語ります。






第一の壁


「卒業アルバムに載せる集合写真撮影の日に休んじゃってさ、一人だけ上の方に丸で囲まれた写真になっちゃってる奴がいるんだよな!」
 
聞き飽きたあるあるネタだが、よく考えてみると「写真上には存在しているのに、それは存在していなかったことを意味している」というのは不思議な話だ。
しかも、不在である事がむしろ存在を強調してもいる。
 


第ニの壁


私は有名な建造物が工事中の時、応急処置として建造物を精巧にプリントした幕で覆っている状態が好きだ。


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時にはそれが幕である事を最後まで気付かない人もいる。
ディズニーランドに入ったら誰の目にも最初に飛び込んでくるシンデレラ城ですら、気付いていない人がいた。


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勿論、それは印刷の技術が発達している事も理由の一つだろう。
しかし、そもそも我々は観光地に赴き何を見ているのだろうか?
たとえ目当ての建造物が見えなくても、その場所に行ってあるという気配さえ感じられれば、人間はそれで充分なのかもしれない。
 


第三の壁

2015年4月。葛西臨海水族園のマグロが次々と死んでいき、遂には一匹だけを残す事態となり話題になった。
 
早速休日に家族を誘い、葛西臨海水族園に行ってみた。
 
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▲片手袋にもちゃんと会った
 


巨大な水槽に寂しく泳ぐ一匹のマグロ。
しかし、何もいない空間があまりに広すぎる水槽を見ていて、私はこう思った。


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「ああ、この大きな水槽を沢山のマグロが回遊していたよな」
 
この水槽は昔から何度も見てきたが、「めちゃくちゃ沢山のマグロがいるな!」と感じた事はなかった。
しかし、一匹しか存在しない寂しい水槽を前にした私の脳裏にはむしろ、元気に泳ぎ回るマグロ達がいつもよりハッキリと浮かんでいた。

“いない”からこそ“いる”は意識できるのかもしれない。
 


第四の壁


2015年8月。オリンピックスタジアム再建の是非を巡り侃侃諤諤の議論が繰り広げられる中、私は思った。
 
「あの場所に“何もないがある”状態を見られるのは今だけなんだな」
 
早速休日に家族を誘って、新国立競技場の工事現場を歩いて一周してみた。
 

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片手袋にもちゃんと会った
 

都心ではめったに目にする事のない、“何にもない”広大な空間。


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しかし、“ない”を見に行ったはずなのだが、私の心の中に湧いてきた思いは終始、「ああ、ここに国立競技場が“あった”んだな」であった。
私は“ない”を見に行ったのか、“ある”を見に行ったのか?
 


第五の壁


2018年2月。場所がハッキリとは分かっていなかった浅草凌雲閣の遺構の一部が、工事現場から出てきて話題になった。
スパイダースのアルバムでは『明治百年、すぱいだーす七年』が一番好きなこの私。


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▲凌雲閣が描かれたジャケット
 

早速休日に家族を誘い、浅草の工事現場に行ってみた。
確かに掘削された地中から、凌雲閣の基礎部分となっていたレンガが顔を出している。


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▲片手袋にもちゃんと会った


「ああ、ここに浅草十二階がそびえ立っていたんだな」
 
この時の私の思考回路は、「“なくなった”と思っていたものの一部分が“あって”、“あった”ことを想起する」という、若干複雑なものであった。
 


第六の壁

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放置型片手袋が拾われて塀の上に置かれ、介入型になる。さらに目立つよう、誰かがフェンスに移動。

その後は無事落とし主の元に戻るか、処分されてフェンスからも消えていくだろう。やがて再び、誰かがこの場所に片手袋を落とすかもしれない。そしてそれが拾われ…。
 
私たちが目にする放置型だったり介入型だったりする片手袋は、様々な運命を辿っている最中の一場面でしかない。
そう、つまり片手袋とは「瞬間の現象」ではなく、恐らく人類が手袋を装着し始めてから永遠と繰り返してきた「落ちたり、拾われたり、無くなったり、と変化し続ける運動」の事なのだ。
 


第七の壁、そしてその先へ


(移り変わる都市、止まる事のない人間の様々な営み。そういった大きな大きな運動の中で片手袋は生まれ、消えて、また生まれる。
 
もしそうだとすると、“片手袋がないorなくなった”という事は“片手袋がある”という事と同じくらい重要なのではないか?いや、それどころかその二つの間に差異はないのではないか?)
 

ある日の早朝、私はゴミ出しをしながら、今まで経験してきた“ある”と“ない”の認識にまつわる様々な事象や片手袋のことを考えていた。
 
(そうだ、俺は今まで“片手袋がある”という景色しか撮ってこなかった。でもそれで記録できるのは、片手袋という運動の一部分でしかなかったんだ。ユーレカ!)
 
そう気づいた瞬間、私は視界と思考が急激にクリアになっていくのを感じた。そしてゴミ出しを終えると、いつの間にか走り出していたのである。
 

向かったのは数年前に放置型片手袋と出会った近所の路地。
当然、片手袋はない。だが、それで良い。あの時と同じ構図でその“片手袋がない”風景を記録した。


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今まで何千枚と片手袋を撮ってきたが、一度も味わった事のない感覚に一人打ち震えた。
その日から、私はかつて片手袋と出会った場所を再訪しては、“片手袋がない”風景を撮り始めたのである。


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▲ちなみに写真の順番はどちらが右でも左でも構わない


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▲草が生えている。都市も変化し続けている


確かにそこに片手袋はない。だが片手袋があった気配、あるいはこれから片手袋が発生する予兆を強烈に感じる。ああ、凄い。もっと早くに気付くべきだった。
 
そして今、さらにもう一つ壁を乗り越え始めている。
かつて片手袋と出会ったわけでもない場所、つまり何でもない普通の場所にすら片手袋を感じ始めているのだ。



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なんか片手袋っぽい!



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見える、片手袋が見える!



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どんだけ片手袋なんだよ!


“ない”から“ある”。
“ある”から“ない”。
全ての壁を突破した私は今、片手袋があろうがなかろうがそんな細かい違いはもう気にならない。

少しずつ少しずつ、私は片手袋の本質に近づいているのかもしれない。



【筆者】

片手袋研究家 石井公二 片手袋大全twitter

 著者近影小学校1年生から路上に落ちてる手袋に注目して30年。